ためになる!?ぶつだんやさんコラム

2020年5月13日

母の日参り

  • お仏壇と墓石の太田屋
  • 太田博久(代表取締役)

毎年この時期になると、弊社の生活雑貨店では、通常とは少し違った風景が見られます。普段は女性客が圧倒的なのですが、「母の日」が近づくと、お父さんとお子様と思しき組み合わせの親子連れが増え、仲良くプレゼントを選ぶ姿が目立ちます。きっとお母さんには内緒で、サプライズを考えているのでしょう。お母さんの喜ぶ顔を思い浮かべながら、皆さん一様に楽しそうにプレゼントを探している様子を微笑ましく感じます。

ご存知のように、「母の日」は母親への日頃の感謝を表す日として定着しています。その起源は、20世紀初頭の米国で、一人の女性が亡き母を偲んでした行為にあるとされます。

フィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスは、敬愛する亡き母を偲ぶ日々の中で、世の母親に感謝を表す記念日づくりを思い立ちます。彼女の構想に共鳴した人々の助力も得て、1908年5月10日、アンナの母が長年教鞭を執っていたウェストバージニア州の教会で「母の日」を祝う会が催され、アンナは母の好きだった白いカーネーションを祭壇に捧げました。これが公的には最初の「母の日」と言われています。今では、世の母親の皆さんに贈られるプレゼントは多種多様ですが、私の子ども時代は、母の日=カーネーションだったことを思い出します。

このような起源もあり、「毎日香」で有名なお線香メーカーの日本香堂さんが中心となり、数年前から「母の日参り」を推奨しています。

https://hahanohi-mairi.jp/

このサイトには、多くの方々から「亡き母への思い」が寄せられています。

私の父は一昨年亡くなりましたが、母はお陰さまで傘寿(80歳)を過ぎても健在です。でも、父を亡くした際に、やはり同じ年齢の母が「もしもの時には…」と必然的に考えざるを得ませんでした。

その時に思い起こしたのは、子どもの頃に聞かされた母の話です。2歳で母親を亡くし顔も覚えていないこと、西日暮里で東京大空襲に遭い弟妹を連れて逃げたこと、信州へ疎開して苦労したこと、二人の継母に育てられたこと…等々の、幼い頃に何度となく話してくれた母の体験談です。それに加えて思い出したのは、幼い頃の私と母の記憶です。何かつらい出来事があって家を飛び出した母の後を追い、泣きながら追いかけたこと、新潟の海に向かう満員電車で到着駅になかなか降りられず、母が私と弟を窓から降ろし、自分は「降りま~す」と大声を上げながら人波を掻き分け降りてきたこと等々…日頃は思い出すこともない幼い頃の母との思い出でした。「この人は、何があっても私たち兄弟を守ってくれる人だ」と、子ども心に強くそう感じていました。そして「歯をくいしばって頑張る」とか「少々つらくても辛抱する」という力は、母から教わったものだとつくづく感じました。

ところが、80歳を過ぎてもまだ現役で仏壇店に立つ母に対しては、実際にはなかなか素直に感謝の気持ちを表すことができていません。それどころか、考え方が違いすぎたり、余計なお節介や一言が多かったりして、つい言い合いになるのが日常です。でも、それでもいいのかな…とも思います。私にとって存命している「他者としての母」と、自分の中に存在する「記憶の母(思い出の母)」が少々異なるのは、母がまだ生きているからこそだと思うからです。そう思うと、母の日参りとは、亡き母に感謝し、自分の中の「記憶の母」と向き合うことなのかもしれません。

いつか必ず訪れるその時まで、これからもたまには喧嘩をしつつ、実際の母と私の中の「記憶の母」との違いを楽しめたらと思います。心の中で感謝しながら。