ためになる!?ぶつだんやさんコラム

2019年11月14日

震災遺構と供養

  • お仏壇と墓石の太田屋
  • 太田博久(代表取締役)
震災遺構

「みんなで桜を植えた」

「海へデートに行く時、車をよく停めていた」

「子どもの頃サッカーをしていた」

仙台出張の折、東日本大震災から8年半が経過した「震災遺構・荒浜小学校」を訪れてみました。

13mを超える津波に、2,200人が暮らす街が丸ごと飲み込まれてしまった仙台市荒浜地区。その中で唯一残った建物がこの荒浜小学校。今は震災遺構として保存され、当時の様子を語り継いでいます。

建物がそのまま保存された校内には、「あの日」の出来事を記録し伝える当事者の証言ビデオ「3.11荒浜小学校の27時間」が上映され、具体的で生々しい様子を知ることができます。若者が溢れにぎわう仙台市中心街から車で僅か30分程の場所ですが、未だに荒野のようなままの風景が、この街の方々の暮らしのすべてが失われてしまった事実を物語っています。

中でも強い印象を受けたのは、震災以前の街の姿を再現したジオラマと、閉校となった学校や失われた街への思いが記された黒板を展示した教室でした。冒頭の言葉は、そのジオラマの様々な地点に差し込まれた「人々の思い出」を記入したプレートの一部です。1軒ごとの居住者の名前と共に、無数の「思い出」が記録されていました。それを見下ろす黒板には、「ありがとう」「また会いたい」「立ち上がれよみがえれ荒浜」「負けるな!荒浜の子ども達!」といった感謝や願いの言葉が溢れていました。

ジオラマと黒板

この教室でしばらくじっと、被災され街を失った方々の言葉や記憶に触れているうちに、ふと「ここは、失われた愛するものへの供養の場なのかもしれない」との思いが湧いてきました。思い出すこともつらい記憶、失われたものへの愛着…荒浜の方々一人ひとりが抱える喪失の悲しみと苦しみを改めて自身の心に刻み直し、皆で共有し、それを抱え込んだ自分としてこれからを生きていく。この震災遺構は、私共が日々向き合っている葬送や供養と同じような役割を担っているのではないか、そう感じました。

残したい、残したくない。震災遺構は、被災当事者の方々の複雑な気持ちが交錯する存在だと思います。ただ私は、この「震災遺構・荒浜小学校」は、これからもずっと、丸ごと街を失った方々の「願いや祈りの場」であり続けるだろうと思いました。