ためになる!?ぶつだんやさんコラム

2021年8月29日

音羽山清水寺

  • (株)佐倉幸保商店
  • 佐倉浩徳(代表取締役社長)

京都へ訪れれば誰もが足を運ぶであろう『清水寺』。『清水の舞台から飛び下りる』という言葉で有名な、舞台から眺める景色はとてもとても絶景で、季節ごとに色々な顔を見せてくれます。

 

清水寺の正式名称は『音羽山清水寺』と言います。なぜその名がつけられたのか、今回は清水寺のお話です。

 

時は奈良時代、778年奈良の興福寺の僧侶であった賢心(けんしん)は、夢の中で『北へ、清水を求めて行け』というお告げを授かります。お告げに従った賢心は、音羽山で清らかな水の湧き出る滝に辿り着きました。そこで200年間も千手観音を念じながら滝行を行う、修行者の行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会います。行叡は賢心に言いました「あなたが来るのをずっと待ち続けていた。どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ。」そう言い残し忽然と姿を消しました。代わりに残されていたのは霊木でした。賢心は行叡が千手観音の化身だということを悟りました。そして千手観音像を彫刻し、行叡の旧庵へと安置しました。これが清水寺の始まりだと言われています。
それから2年後、奈良・平安時代の公卿坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が妻の病気を和らげるため、鹿の生き血を求め音羽山へとやって来ました。鹿狩りの途中、修行中の賢心と出会い“殺生の罪”を説かれます。その教えに感銘を受けた田村麻呂は、自らの邸宅を寄進し、千手観音をご本尊とする寺院を建立しました。音羽の滝の清らかさにちなんで『音羽山 清水寺』と名付けられました。

この時のご本尊である千手観音像は火災で焼失してしまいましたが、鎌倉時代に当初のご本尊を模して造られた千手観音像が、現在も安置されているご本尊です。この千手観音像は正式には『十一面千手観世音菩薩立像』という名前で、その造りには特徴があり『清水型千手観音像』とも呼ばれています。清水型と呼ばれている理由には、他の千手観音像には無い特徴があるからです。それは千手観音のポーズにあります。一般的な千手観音像は観音様の左右から扇のように沢山の手が伸びていますが、清水型は左右の一番高い位置にある手が観音様の頭上で伸びをしているかのように組まれています。そして組まれた手の上には小さな仏様が乗っています。この小さな仏様は化仏(けぶつ)と呼ばれ、全ての生きとし生けるものを救済するため仏様が変化したお姿だそうです。このような形の千手観音像をお祀りしている場所は他にも数カ所あるそうですが、清水寺が始まりだとされているため、清水型千手観音と呼ばれています。こちらは秘仏とされ、33年に1度御開帳されているそうです。鎌倉時代と簡単に言っても、800年も前に造られた貴重な秘仏です。次に御開帳されるのは2033年の予定だそうなので興味がある方ぜひ手を合わせに行かれてはいかがでしょうか。

さて、音羽の滝ですが、清水寺に行かれたことが有る方には見覚え…と言いますか、汲み覚えがあるかと思います。清水の舞台から下った場所にある、高さ4メートル程の3本の滝。こちらが音羽の滝です。3本の滝にはそれぞれ異なるご利益があり、学業・恋愛・長寿あるいは健康・美容・出世など時代によって様々なご利益が言い伝えられてきました。どの滝を汲むかで悩まれた方も多いのではないでしょうか。現在では音羽霊水として購入して帰ることもできるそうです。

 

このような歴史的なご縁があり、清水寺では元祖(開祖)を行叡居士、開山(最初のお寺を造り開いたもの)を延鎮上人(賢心の後の名前)、本願(寺院などを創立し、法会を執行する発起人)を坂上田村麻呂としており、境内には田村麻呂夫婦の像もお祀りされています。

 

清水寺は『北法相宗』と言う宗派です。元々は『法相宗本山 興福寺』の末寺でしたが、1965年に北法相宗の本山として独立しました。檀家制度などがないため、昔からたくさんの人々の信仰のみで成り立つお寺です。

 

年間たくさんの観光客で賑わう清水寺ですが、その歴史を知れば、より一層楽しんでお参りができるのではないでしょうか。私も何度も訪れている場所ですが、お参りに行くたびに初めて知ることがあります。歴史に触れられるモノを見つけに、また足を運びたいなと思います。