ためになる!?ぶつだんやさんコラム

2021年7月7日

日本人は本当に「無宗教」なのでしょうか?

  • お仏壇と墓石の太田屋
  • 太田博久(代表取締役)
諏訪湖とお釈迦様

NGOのインターンでバングラデシュに居る次女から近況報告があり、現地の人から「お前の信仰する宗教は何だ?」との質問を受けたそうです。親の私の期待とは裏腹に、ちょっと悩んだ挙句、思わず「無宗教」と答えてしまい、案の定怪訝な顔をされ、もう一度悩んだ挙句「強いて言えば仏教徒かな?」と答えて納得してもらったようです。バングラデシュはバリバリのイスラムの国。娘もどうやら海外での「日本人あるある」の洗礼を受けたようです。

葬送供養の仕事に携わる私の子供として、もし聞かれた際には堂々と率直に「日本人の宗教観」を伝えて欲しいと密かに思っていたのですが…まだまだ親の教育が足りなかったようです。そこで改めて、私も日本人の宗教観について考え直してみました。

そもそも宗教の定義って何だろう?そう思って調べると、広辞苑には「神または何らかの超越的な絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系」とあります。またウィキペディアの記載によれば、宗教とは「一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀式、施設、組織などをそなえた社会集団のこと」とあります。う~ん、難しい…。それでも「人知の及ばないものや働きに対する畏敬の念、その存在を神聖なものとして信じる気持ち」が基礎となり、それらを「体系化」したものなのかな…と理解しました。

確かに、世界三大宗教と呼ばれる仏教・キリスト教・イスラム教には、それぞれが表現する「超越的な絶対者(唯一神・仏)」と言葉化された「教義・教典(経典)」が存在し、私には理解不十分ではありますが一定の「体系化」もされているのだと思います。そう考えると「あなたの信じる宗教は?」と問われたとき、「仏教です」「キリスト教です」「イスラムです」など、体系化された特定の宗教名で答えることが「正当」で、そうなると日本人としての私もちょっと答えに窮するかもしれません。もちろん日本人でも、それら特定の宗教を信仰し、その名称で明確に答えられる方もいらっしゃるでしょうが、私も含め多くの方々は、特定の宗教名では答えられず、その結果として「無宗教」と答えてしまう場合があるのだろうと思います。だとすると、やはり日本人の多くは「無宗教」ということになるのでしょうか?

日本人に関して、ときに国際的に報道される「礼儀正しさ」の事例があることを皆さんもご承知かと思います。サッカーなどスポーツの国際大会に応援に行った日本人が試合後に会場を皆で自発的に清掃する姿、大きな災害の際に、その混乱に乗じて起こる暴動や犯罪が極めて少ないこと、また被災した人々が避難所で節度を保って行動する姿など、どうやら他国の人々と比べて際立つ日本人の節度・秩序・礼儀正しさは間違いなくありそうです。その要因は何なのかを考えると、私はそこに、実は日本人の心に根付く、ある種の「宗教観」を思わずにはいられません。

諏訪大社上社 初詣

また、よく言及されるように、七五三やお節句などの子供の成長を願う一連の行事、初詣や地鎮祭などといった神社や寺院に関連する無事を祈願する儀式、先祖崇拝や葬送供養に関する儀式や行事、そして地域ごとに長年続けられている宗教的要素を含んだ祭り等々、宗教や信仰と呼べる要素が様々に組み込まれている日常的な儀式や行事が、現在の私たちの暮らしの中にも大きな違和感なく溶け込んでいる事実があります。その違和感のない自然な姿の背景には、古代のアニミズム、自然環境すべてに神が宿る八百万(やおよろず)の神、様々なご神体に基づく神道、伝来後に神仏習合という形で育まれてきた仏教、私たちを見守る存在として受け止める先祖崇拝…といった先人たちが信仰し、暮らしの中で秩序づけられてきた「宗教観」が間違いなく反映されているように思います。その宗教観は、今も「お天道様が見ている」「ご先祖に申し訳ない」というような言葉に代表される日本人の超越者への信仰に確かに支えられていて、私の知る限りでは、世界の他地域とは異なる、一般的な宗教の定義には収まり切らない独特な「日本教」とも呼べるものではないかと思います。この「日本教」には、決して言葉化され体系化された教義や教典があるわけではありませんが、世界から一定の評価を受ける日本人の「秩序という体系」を基礎づけているとも考えられます。そして、この私たち日本人の独特な宗教観は、空気のようにとても自然に日常に溶け込んでいるだけに、自分自身では意識することがなく、それが「無宗教」という言葉になってしまう要因なのではないか、と感じます。

「宗教は、人が幸せになるためにあるのです。」20年ほど前、地元ご住職のお供でインドを訪れたとき、亡命政府のあるダラムサーラーでダライラマ14世に謁見する機会をいただきました。(ちょっと自慢です。)その時にダライラマ14世がおっしゃった言葉は、今も印象的ですし、私もまったく同感です。信仰する以上は教義に忠実であることは必要ですが、特定の宗教を信仰するあまりに、他者が他の宗教を信仰することを認めず、信仰がむしろ他者の否定や争いの原因になるようでは、宗教として、信仰として本末転倒ではないかと思います。残念ながら、世界には依然として、宗教・信仰が原因と思われる数々の対立が存在します。それを思うとき、日本人の持つ宗教観は、他国から見ると決して明確ではなく、曖昧さを多分に持ち、おぼろげな輪郭しか見えないかもしれませんが、それでも確かに暮らしの中に「空気のように」定着した、独特で「立派な」宗教観であり、宗教文化と言えるのではないでしょうか。

お地蔵様

葬送供養の仕事に携わっているとはいえ、私は専門的に学問的に宗教を勉強したわけではありません。ただただ日常的な暮らしの中で感じている「肌感覚」に基づくだけの曖昧な、漠然とした「宗教観」についての稚拙な考えにしか過ぎないかもしれません。それでも、世界に存在する宗教に基づく対立や抗争、その反面で日常生活の中の一定の節度や秩序、礼儀正しさの背景に垣間見える日本人の宗教観を思うと、日本人は決して無宗教などではないと言いたくなります。娘がバングラデシュから帰国したら、日本人と宗教について一緒に話をしてみたいな…と改めて思っています。