ためになる!?ぶつだんやさんコラム
2021年5月28日
伝教大師最澄
- 株式会社ぶつだんのもり
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最澄(さいちょう)とは
最澄とは平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖である人物です。
没後に日本初の大師号の諡号(しごう)である「伝教大師(でんぎょうだいし)」が勅諡(ちょくし)されています。
幼名は広野(ひろの)ですが、12歳の時に近江の国分寺行表(ぎょうひょう)に弟子入りし、後に出家して最澄と名乗るようになりました。
遣唐使
804年に最澄は遣唐使として唐へ渡ります。その時の遣唐使船で、後の真言宗の開祖である空海と一緒でした。
既に正式な僧として戒律を授けられた官僧(かんそう)としての務めも果たして名のあった最澄は国費での留学生であったのに対し、空海は無名であり私費での留学生であったそうです。
最澄は1年間滞在後に帰国しましたが、空海は2年間滞在しました。
最澄は唐で、天台山に登って天台教学を学び、禅林寺で禅の教えを受け、帰国直前に越州龍興寺で密教の伝法を受けました。
天台宗
最澄は805年6月に唐より帰国し、天台宗を開きます。そして806年の1月には天台宗が公認されています。
天台宗は、法華経を根本仏典とするため天台法華宗とも呼ばれます。正式名称は「天台法華円宗」です。
当時は「特別な人間だけが成仏できる」という考えの宗派が一般的だったところに、最澄は「修行をすればすべての人が成仏できる」という教えを説きました。
比叡山 延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)
天台宗は唐に渡る以前に建立していた比叡山延暦寺を本山としていますが、その時の年号である延暦寺という寺号が付いたのは最澄の没後のことであって、建立時は一乗止観院という名称だったようで、比叡山寺とも呼ばれていました。
最澄は法華経を中心として、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想を伝えたことから、延暦寺は四宗兼学(ししゅうけんがく)の道場とも呼ばれ、後に浄土宗の開祖である法然(ほうねん)、浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)、臨済宗(りんざいしゅう)の開祖である栄西(えいせい)、曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖である道元(どうげん)、日蓮宗(にちれんしゅう)の開祖である日蓮など、様々な宗祖を輩出しています。
延暦寺は織田信長により焼き討ちにあいましたが、徳川家康の側近である南光坊 天海により再建されました。
最澄と空海の関係
同じ遣唐使船で唐に渡った空海は、最澄よりも1年長く滞在し、最澄とは異なる真言密教の経典を学びました。
最澄は密教を学ぶ必要性を感じていて、唐より多数の経典を持ち帰った空海に何度も借りにいっていたのですが、最初は快く貸していた空海も「書物に仏の教えは宿らない」という考えから、そのうちに最澄を拒絶するようになるのです。
直接空海から教えを受けようと思っても、既に天台宗の責任者であった最澄は、空海のもとで長期に渡る修行はできず、その後空海とは疎遠となってしまいます。
他宗との論争
最澄は他宗の僧と激しい論争をしていた事でも有名です。
特に法相宗(ほうそうしゅう)の徳一(とくいつ)との論争は激しかったとされ、最澄が亡くなる前年まで長きに渡り続けられたそうです。