ためになる!?ぶつだんやさんコラム

2021年3月29日

鑑真が伝えたもの

  • 株式会社佐倉幸保商店
  • 佐倉浩徳(代表取締役社長)

皆さんは鑑真(がんじん)という僧をご存じでしょうか。学校の歴史の授業で遣唐使などを習う時に学ぶことが多いと思います。

鑑真は日本人ではなく唐(中国)から『正しい仏教』を伝えるため命を懸けて日本へやってきました。教科書の数行では伝えられない鑑真の『日本仏教界への偉大なる功績』とは一体どんなものだったのでしょう・・・

 

今から1300年前、奈良時代の日本では飢饉が続いていました。その上、天然痘(てんねんとう)などの疫病が何度も流行り、数多くの人が命を落としました。天皇は相次ぐ災いから国を守るために仏教の力で治めようと、寺院や大仏を次々に作りました。しかし、その建設のために農民たちには重い税や労働が課せられ、生活はどんどんひっ迫していきました。その頃の日本仏教界には公の戒律(修行者が守るべき規律・規則)はなく、僧には『納税や労働』の義務が免除されていました。そのため仏教を知らなくても僧を名乗り、税や労働から逃れるものが急増しました。そして知識のない僧侶が増加した日本仏教界は大きく乱れることとなりました。

 

朝廷は僧の質の低下と、税収と労力の減少に悩みました。そこで、僧になるためには国家の公認を必要とすることとし、僧の質の向上と、限られたものへの選別を考えました。そして正しい仏教を教えてくれる僧を唐から招きいれるため、733年に栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)という二人の僧を唐へ送りました。

遣唐使として送られた二人は日本へ一緒に渡ってくれる僧を探し回りましたが一向に見つかりません。9年が経ち、やっと出会ったのが鑑真でした。

揚州の大明寺の住職であった鑑真は、過去に4万人もの僧に授戒(仏教の戒律を授け僧として認めること)を授けた名僧です。それだけではなく、貧民や病人の救済など、社会活動に力を注いでいました。そんな鑑真に栄叡と普照は『日本に仏教の戒律を正しく伝えて欲しい』と懇請しました。二人の思いと日本仏教界を心配した鑑真は『日本へ渡るものはいないか』と弟子たちの中から希望者を募りました。しかし、当時の唐では密出国は死罪になる恐れがある重罪でした。また船での渡航は極めて危険で、3分の1が命を落とすと言われていたため、鑑真の問いかけに弟子たちは皆沈黙しました。『これは仏教のため。なぜ命を惜しむことがあるのか。お前たちが行かぬならば、私が行く』この時すでに54歳の鑑真は、弟子たちにそう言いました。その決意に弟子21名が随行することとなりました。

 

しかし、鑑真が日本へ渡ることはそう容易くは叶わないのでした。

最初に渡航を試みたのが743年、それは鑑真の弟子と衝突した僧が『栄叡と普照は海賊だ』と役人へ密告し、二人は逮捕され失敗に至りました。その年に再度挑戦するも、悪天候のため戻らざるをえなくなり失敗。

その翌年の3度目の挑戦では、鑑真ほどの人徳を失うことを惜しんだ者が密告をし失敗。同年の4度目には、鑑真の体を心配した弟子が密告し失敗。

その度に日本の二人の僧は役人に捕らえられました。4度目の渡航計画の際には1年もの間捕らえられてしまいました。それでも諦めなかった栄叡と普照は3年間行方をくらまし、748年再び大明寺の鑑真のもとに訪れ懇願します。そして鑑真は5度目の渡航を決意します。6月に出発した鑑真は南へと流され中国の群島へ漂着、数か月風待ちをし、11月に日本へ向けて再び出航します。しかし暴風に見舞われ14日間漂流した後、遥か南にあるベトナムに近い島、海南島に漂着します。そこで大雲寺という寺に1年程滞在した鑑真は、数々の医薬の知識を島に伝えました。

751年鑑真は揚州に戻るため海南島を離れますが、途中に栄叡が死去しました。ひどく動揺した鑑真は広州(香港)から天竺(インド)へ向かおうとしましたが、周囲に慰留されました。そして揚州までの帰り、気候と重度の疲労で鑑真は両眼を失明してしまったのです。

752年、20年ぶりに日本から遣唐使がやってきました。遣唐大使の藤原清河が鑑真のもとを訪れ渡日を約束しました。しかし皇帝の許可が下りなかったため、清河は鑑真の同乗を拒否しました。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)は内密に第二船に鑑真を乗船させ、753年11月16日4隻が同時に出発しました。11月21日までに3隻が現在の沖縄本島に到着しました。その後3隻は種子島を目指しますが、第2船・第3船の2隻は屋久島に到着。第1船はベトナムへ漂着し、中国に戻ることになってしまいました。

こうしてこの年の12月、鑑真はついに鹿児島へ到着しました。翌年普照の乗る第3船も和歌山へと到着しました。

 

鑑真が日本へ渡ることを決意してから約12年。長く険しい道のりを乗り越え来日を果たしました。旅の途中にはたくさんの弟子を失いました。それでも仏教のためにと強い思いで進んできた12年。この時、鑑真は66歳になっていました。

そして鑑真は、大仏が完成したばかりの奈良の東大寺に入りました。

 

翌754年、東大寺に戒律を授ける戒壇を設け、たくさんの僧侶が鑑真より戒律を授かりました。これにより日本の仏教界の風紀は大きく改善されていきました。

758年鑑真は激務から引退し、奈良に小さな私寺の唐招提寺を建立します。戒律を学ぶための小屋のようなこの寺には、鑑真を慕う僧たちがたくさん学びに来ました。その寺で4年間正しい戒律を伝え続けました。そして76歳多くの弟子に惜しまれつつその壮絶な生涯を閉じ遷化(死去)されました。

死去を惜しんだ弟子の忍基(にんき)は、鑑真の彫像を作り、現在まで唐招提寺に伝わっています。これが日本最古の肖像彫刻とされており、そのことでも鑑真の偉大な功績と人徳がうかがえます。

 

栄叡と普照という二人の遣唐使の思いに心動かされ正しい仏教を伝えるため日本に渡った鑑真。日本で過ごした9年という年月は、日本に来るために力を尽くした12年という年月に比べれば短い時間でした。しかしこの年月で鑑真がもたらしたものは、日本仏教を大きく変えるものとなりました。日本でも貧困に苦しむ人や病人を救う施設を作り、人の為に生きた鑑真。仏教を正しい道へ導くため命をも惜しまないその姿勢で、身をもって伝えたその教えは、今もなお多くの人を導く日本の仏教界に多大な影響を与えました。

 

日本仏教の礎を築いた天台宗開祖の最澄は、鑑真の持ち込んだ経典を読み唐での修行を心に決めました。こうして偶然が重なり、今に続いていることが奇跡でもあり必然なのではないでしょうか。