ためになる!?ぶつだんやさんコラム
2021年2月22日
太子会
- 株式会社大越仏壇
- 商品部 四ツ谷
太子会とは「たいしえ」と呼び、太子会とは、聖徳太子の忌日(旧暦2/22)つまり、聖徳太子が亡くなった日に
行なわれる法会の事です。
聖徳太子と言えば、名前を聞いたことがある人が大半だと思います。
旧一万円札に描かれていた事でも有名です。
では、聖徳太子はどのような人物でどのような事をしたのでしょうか?
聖徳太子と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。
これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」です。
聖徳太子は、厩戸前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたという説があります。
厩戸とは、競馬においては、調教師が管理する施設や組織の総称として用いられる言葉です。
元は家畜を飼う小屋の事です。
聖徳太子にまつわる伝説は数多くありますが、有名な話を三つ程紹介します。
豊聡耳
まず一つ目は、皆さん一度は聞いた事があると思われる“豊聡耳”というものです。
これだけでは、何のことか分からない方が多いと思います。
ある時、聖徳太子が人々の話を聞く機会がありました。
我先にと口を開いた者の数は十人にも上ったが、聖徳太子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解して、
的確な返答をしたと言います。
これ以降、聖徳太子は豊聡耳(とよさとみみ)とも呼ばれるようになりました。
しかし、これは十人がいっせいに言葉を浴びせかけたわけではなく、「十人の話を一人ずつ順に聞いたうえで、
それぞれに対し的確な回答を行った」というのがどうやら実態のようですが、真実は分かりません。
また、「上宮聖徳法王帝説』や「聖徳太子伝暦」という聖徳太子の伝記では十人ではなくて八人であるという説も
あるようです。
「日本書紀」と「日本現報善悪霊異記」では十人であり、諸説あるようです。
また、十一歳の時には、子供三十六人の話を同時に聞き取れたと言われている。
一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で
豊聡耳という名が付けられ、逸話が後付けされたとする説もあります。
飛翔伝説
二つ目は、“飛翔伝説”です。
聖徳太子がまだ若い時に、全国各地から献上された数百頭の馬の中から一頭の馬の卓越した能力を見抜き、
飼育させました。
数ヵ月後に聖徳太子が跨ると、その馬は大空高く舞い上がり、そのまま東国へと向かいます。
そして、飛鳥の里から数百キロ彼方にそびえる富士山までたどり着くと、その富士山の頂さえも軽々と
飛び越えて信濃国へと舞い降り、三日後には飛鳥の都に帰ってきたというものです。
兼知未然
最後は、“兼知未然”です。
聖徳太子は、予言者だったのかもしれません。
「日本書紀」には「兼知未然」とあります。
この記述は後世に「未来記」の存在が噂される一因となった「平家物語」巻第八に「聖徳太子の未来記にも、
けふのことこそゆかしけれ」とあります。
また、「太平記」巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰と
その親政を読み取る様が記されています。
これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことが伺われます。
しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものとされています。
「先代旧事本紀大成経」の六十九巻目に記された「未然本記」が、「未来記」もしくはそれを模した書で
あるとされたが、人心を惑わす偽書であるとして江戸幕府により全七十二巻が禁書とされ、編纂者の潮音らが
処罰されました。
上記の以外にも聖徳太子は、数多くの伝説や成し遂げたことがあります。
聖徳太子という人物を知れば知るほど奥深く面白いと感じます。
皆さんも興味がある方は、調べてみてくださいね。