ためになる!?ぶつだんやさんコラム
2021年2月15日
日本仏教の基礎を築いた『天台宗開祖 最澄(さいちょう)』
- 株式会社佐倉幸保商店
- 佐倉浩徳(代表取締役社長)
平安時代最澄は滋賀県大津市に日本仏教の『母山』比叡山延暦寺を建立しました。
延暦寺が『母山』と言われる由来は、日本仏教を代表する『浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗』全ての開祖が、延暦寺で学ばれたからです。言わばこれらの宗派の始まりに延暦寺があるのです。
最澄はそれまでの日本仏教には無かった『限られた人のみではなく、全ての人を救い導く』という思いのもと、天台宗を開かれました。この教えは今でも多くの人を導き続けています。
仏教によるお葬式では、お坊さんが経を読み上げ故人を極楽へ導いて下さいます。それは次の世が決まる四十九日まで続きます。そしてその後も供養を続けることで、お坊さんは故人や悲しみの癒えないご遺族に寄り添い続けて下さるのです。宗派ごとで多少の違いはありますが、その考え方は変わりません。それは各宗派の開祖たちが『限られた人のみではなく、全ての人を救い導く』と考えられた最澄の教えを学ばれたからこそです。そして最澄の時代から1200年以上たった今でも受け継がれてきました。
そんな最澄はいったいどんな人物だったのか、
そしてどんな生涯を歩まれてこられたのでしょう…
767年、最澄は近江国(現在の滋賀県大津市)の坂本で生まれました。家はその地域を治める一族で、幼名を広野(ひろの)と言い、幼い時より勉学に励むとても優秀な子だったそうです。神仏の信仰が深い両親の影響で僧侶になる道を選び、十三の時に近江国分寺で学び、十四歳で出家。大国師・行表大師(ぎょうひょうだいし)の弟子になります。そこで最澄という名前を頂きます。
ある時、行表大師は最澄に「心を一乗に帰すべし」と伝えました。『一乗』とは一つの乗り物であり、それは仏になることを目指す乗り物。同じ仏教でも、色々な形に分かれそれぞれの教えのもとにあっても、最終的な目的地は一緒で、全ての人が必ず仏を目指し仏になれるという教えです。その一乗の教えをいつも心に大切にしなさいと最澄に伝えたのです。
とても感銘を受けた最澄は一生涯この教えを守り、広めることに努力し続けました。このころ最澄はまだ十代です。
そして785年、十八の時に奈良の東大寺にて国から認められた正式な僧侶になりました。
その後は奈良に留まるでもなく、師のいる国分寺に戻ることもなく、新たな修行の場を求め、人里離れた比叡山に入られました。その時、最澄は『全ての人を救い、導けるようになるまではこの場所で修行をし続ける』と誓いをたてました。
若くして国に認められた僧侶になれば、地位を高め名誉や権力を掴むこともできますが、自身の思いを遂げるため、最良の修行の場として比叡山に入ることを選んだのです。
その後、最澄は現在の比叡山総本堂の前身となる一乗止観院という小堂を建て、自ら彫刻した薬師如来像を安置しました。そこに灯された法灯は1200年もの間、一度も絶やすことなく今も燃え続け、『不滅の法灯』と云われています。
修行中、唐の仏教書を学んでいる時に、唐天台宗の祖・天台大師の教えと出会います。それは今までの日本仏教にはない考えのものでした。
そして、この法華経という経典を中心とする教えこそが、全ての人を救える最善の教えであると確信したのです。
比叡山での修行に励む姿勢や、革新的な仏教の考えを持つ最澄の噂は当時の天皇である桓武天皇の耳にも入っていました。当時の仏教の体質を変えたいと考えていた桓武天皇は最澄に強い期待を寄せました。
そして797年、最澄は、天皇直属の僧侶に任命されます。
その頃の最澄は天台宗の教えを書物で学ぶのには限界を感じ、唐へ渡り直接学び極めたいと強く望んでいました。その願いが桓武天皇に認められ、唐天台宗の中心である天台山への留学が許されたのです。
しかしこの時代の航海は大変厳しいものでした。
803年、現在の大阪難波を出発した船は暴風雨に見舞われ、一年間も九州に留まることになりました。そして翌804年、再出発を果たします。が、今回も荒波にもまれ、一か月もの間海の上で漂流し続けやっとの思いで唐へとたどり着いたのです。この時、唐へ向かった船は全部で4船。うち2船(第3船と第4船)は遭難し、第3船は福岡へ漂流、第4船は行方不明になってしまいました。残りの2船の第2船に最澄は乗り込み、長江へとたどり着きます。第1船には真言宗開祖の空海が乗船していましたが中国南の赤岸鎮へと漂着していました。
天台山に辿り着いた最澄は天台教学を学び大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)を授かります。大乗菩薩戒とは、菩薩として、自分の悟りを求めるだけではなく、人々を導く修行者としてあるべき姿勢と、全てのものを慈しみ救うことを誓うための戒律です。また禅林寺では禅を学び、日本へ帰る前に立ち寄った越州の龍興地では密教の伝法を受けられました。法華経・密教・坐禅・戒律を学び、そのすべてが、自身が思う一乗の教えにかなうものでした。そして約8か月の修行を得て桓武天皇の命で帰国。その際に天台山より120部345巻の台州録と、越州での密教典籍102部115巻を請来して帰ってきました。それはそれは大変な量でした。
帰国後は今までの功績が認められ、806年、一乗止観院は年分度者(ねんぶんどしゃ 国家に毎年一定数を限って出家を許された者)の輩出を認められ、年に2名の国家公認の僧侶を輩出できるお寺として新たに加えられました。この時、天台宗が公に認められるものとなったのです。
しかし、このことが奈良を中心に栄えていた六都六宗と対立を深めます。今までの日本仏教の伝統的な戒律『限られたものだけが仏になれる』という小乗仏教に対し、天台宗の『全ての者が仏になれる』という大乗仏教の戒律が反するからです。その頃、会津の・法相宗僧侶の徳一が天台教学を批判したことから、長年続く論争が起こりました。この論争は最澄の晩年まで続いたのです。
国が認める僧侶になるには、年分度者に輩出された後、戒律を授かる場所である戒壇(僧尼となる者に戒律を授ける場)で授戒しなければなりませんでした。それまでに日本には3か所戒壇はありましたが、そのどれもが小乗仏教の戒律によるものだったため、大乗仏教の天台宗は授戒することが出来ませんでした。そのため最澄は大乗仏教の戒壇を比叡山に設けることを計画したのです。しかし奈良の仏教者に受け入れられることはなく、なかなか叶うことはありませんでした。それでも最澄は諦めることなく、どうにか自分が存命のうちに実現すべく奮闘し続けました。
822年6月4日、56歳で最澄は遷化されました。
弟子たちに残した最後の遺言には
『自分が死んでも喪に服さなくてよい。国家を守護するために毎日大乗経典の講義を行うように』と命じられたのです。
正しい仏教が行き渡ることで、人々の心も正しくなり、そうすれば国も守れるとお考えになられていたのです。最後の一時まで一乗の教えを守り伝えた最澄。
亡くなられて7日目のことです。ついに比叡山に独自の戒壇を設けることが許されました。
最澄亡き後、比叡山一乗止観院は『延暦寺』の寺額を天皇より賜り、『比叡山延暦寺』と呼ばれるようになりました。
その後の比叡山の発展は目覚ましく、日本仏教の礎を築いていきました。
同じ時代に生き、共に唐に渡った空海のカリスマ性と比べられることの多い最澄ですが、最澄の日本仏教における功績は計り知れないものです。現在の日本仏教の多くが最澄の教えを学び発展していったもので、こうして比叡山延暦寺は名実共に日本仏教の『母山』と呼ばれるようになったのです。
一乗の教えを守り貫く強い心を持った最澄の魅力は、空海にも勝るとも劣らぬものなのです。