ためになる!?ぶつだんやさんコラム

2020年12月7日

「一隻眼(いっせきがん)」~ユーチューバー逮捕報道に接して~

  • お仏壇と墓石の太田屋
  • 太田博久(代表取締役)

「礼拝所不敬罪」という罪があることを初めて知りました。

山口県の墓所で、土足でお石塔に上り、卒塔婆を振り回し奇声を上げた行為で、いわゆる“迷惑系ユーチューバー”が「礼拝所不敬罪」の容疑で逮捕されました。「動画の再生回数を増やしたかった」とのことで、なぜ自制できなかったのかと残念に思います。

中でも私が特に気になったのは、逮捕された若者が「悪いことをしている認識はあったが、犯罪になるとは思わなかった」と話していたことです。これは「犯罪にならなければ、やってもいい」という考えの裏返しだと思うからです。

禅語に「一隻眼(いっせきがん・いっせきげん)」という言葉があります。凡人が持っている両目の他に、「智慧をもって事物の真実を見抜く特殊な能力のある第三の眼」を指すそうです。確かに、厳密な意味では「真実を見抜く特殊な能力」となれば、凡人の私には決して持ちえない眼なのかもしれません。でも、私なりに、普段の認識をもたらす両目とは別の、「外から自分を見つめるもうひとつの眼」、すなわち「心の眼」と捉えれば、もしかしたら凡人の私でも「一隻眼」を持つことができるのでは…と思っています。

大学生のとき、初めての近しい肉親の死として、私は祖母の死を経験しました。お葬式の際に手を合わせていると、私の頭に、ふと祖母の顔が自然と、ハッキリと浮かんできました。その顔は、明らかに遠くから私を見つめてくれていました。その姿に、これからもきっと、祖母は私を見守り続けてくれるのだろうと感じました。

かけがえのない大切な方を失い、お葬式で、お仏壇やお墓で手を合わせているとき、その方の顔が思い浮かんでくるという経験を持つのは、決して私だけではないだろうと思います。そして誰もが、その大切な方がきっと遠くから自分を見守ってくれていると感じるのではないかと思います。科学的には「見守ってくれている」はずはないのかもしれませんが、それでも、ごく自然にそう感じることは確かな事実です。この「見守ってくれる大切な方の顏」こそが、実は自分の中の「心の眼」であり、「外から自分を見つめるもうひとつの眼」の現れなのではないか…。私は祖母のお葬式を経験して以降、お仏壇やお墓に手を合わせながら、ずっとそう思い続けています。そして、多くの方々に同じように感じ、心の中の「大切な方の存在」を「自分を見つめるもうひとつの眼」として位置づけながら生きていって欲しいと願っています。その「心の眼」を育む場を多くの方々に提供するのが、葬送や供養の仕事をする人間の役割であり、お葬式やお仏壇やお墓は、その経験を促す媒体なのだと考えています。

私たちは毎日、迷ったり悩んだりを繰り返しながら生きています。その繰り返しの中で、心の中の「かけがえのない大切な方」の存在は、「自分を外からみつめるもうひとつの眼」となり、ある時には「一歩踏み出す勇気」を、ある時には「思い止まる勇気」を私たちに与えてくれるはずです。この「心の眼」は、決して「真実を見抜く特殊な能力」とはなり得ませんが、それでも凡人である私にとっては「一隻眼」と言えるのではないか、そう思っています。それは「罪になるのか、ならないのか」という判断規準とは明らかに異なる「心の規準」を、自ら主体的に選び取った規範意識を私たち一人ひとりの心に育んでくれるのではないかと思います。

逮捕された若者が、お葬式で手を合わせ、お仏壇やお墓に向かって語りかけ、彼を見守ってくれる「かけがえのない大切な方」を感じ、「外からみつめるもうひとつの眼」を育む経験を持っていたのなら、「犯罪になるとは思わなかった」としても、きっと「踏み止まる勇気」を発揮して自制できていたのでは…。今回の報道に接し、そう思いました。