ためになる!?ぶつだんやさんコラム
2020年7月7日
心に残った法話~地獄の箸と極楽の箸~
- お仏壇と墓石の太田屋
- 太田博久(代表取締役)
先日弊社で行った「生き物の命に感謝する供養祭」にお越しいただいた地元ご住職のご法話がとても心に残りました。ふたつのお話をしてくださいましたので、2回に分けてご紹介したいと思います。
ひとつは、仏教説話「地獄の箸と極楽の箸」を題材にしたお話でした。(正式な題名ではないかもしれません。)有名な内容ですのでご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、あらすじをご紹介します。
ある日、地獄と極楽を見学に行った男がいました。
最初に地獄に行くと、ちょうど食事の時間。テーブルには罪人たちがずらりと並んでいます。地獄なのですが、そこには豪華な料理が揃っています。にもかかわらず、罪人たちはガリガリに痩せています。疑問に思いよく見ると、彼らの手にはとても長い箸が握られていました。恐らく1メートル以上(3尺3寸)の長さでしょう。
罪人たちはその長い箸を必死に動かしてご馳走を食べようとしますが、まともに口に入れることができません。イライラし、怒り出し、怒鳴り合い、隣の罪人がつまんだ料理を奪おうとし…皆が必死になって自分で食べようとしますがうまく食べることができず、醜い争いが続くばかりです。
次に極楽に向かいました。地獄と同様に食事の時間で、極楽往生した人達が同じようにテーブルに座っていて、料理もやはり豪華に揃っていました。その人達の様子は皆健康そうで穏やかに見えました。そして、持っている箸は地獄と同じ長い箸でした。
食事が始まると、極楽の人達はそれぞれが長い箸で料理をつまみ、自分で食べようとするのではなく「どうぞ」と言って、自分の向こう側にいる人に食べさせ始めました。食べさせてもらった相手は「ありがとう」とお礼を言って、今度はその相手に食べさせてあげるのです。極楽ではこうして、皆がきちんと食事を取ることができていたのです。
この話からは、お互いを思いやることの大切さや協力することの必要性を感じます。また仏教で説く「自利利他(じりりた)」、自己の利益と他者の利益は決して別にあるのではなく、切り離すことができない密接不可分なものだと教えてくれてるように思います。自己という存在が、他者の存在なくしてあり得ないように。
この話をされた後、ご住職はこうおっしゃいました。「では、この長い箸は、一体何を象徴していると思いますか?」と。
ご住職は「私は、例えば科学技術を象徴していると考えてみます。私達の暮らしを便利に豊かにしてくれる科学技術も、使い方(心持ち)が異なれば害をもたらすこともあります。最近では、SNSのような情報技術も当てはまるかもしれませんね。是非皆さんも、一人ひとりが考えてみてください。」
私もこの「長い箸」の話は知っていましたが、その「長い箸」が何を表すのかを考えたことはありませんでした。改めてそれを考えてみると、この話は単に「お互いの思いやりや助け合い」といった心がけや行動のあり方に留まらず(もちろんそれも重要ですが)、様々なことを改めて考えさせてくれる話なのだと気づかされました。日常生活用品?心?我欲?言葉?身体?…これからも考え続けてみたいと思います。